「ばいかる丸」のその後を想う~柳原良平さんを偲んで
こんにちは、gimroです。2017年末、『ばいかる丸』(柳原良平・著・1965年刊)という絵本の復刻版が刊行されました。実に半世紀以上も前に刊行した本です。
著者の柳原良平先生(以下柳原さん)については、サントリーの「トリスウイスキー」のキャラクターを通じてご存知の方も多いかもしれません。
また、柳原さんは複数の海運会社の名誉船長を務められた方でもいらっしゃいます。
無類の船好きとして有名だった柳原さんの人となりや、実在した「ばいかる丸」についてのお話を伺うべく、株式会社商船三井にお伺いしました。商船三井は、ばいかる丸を発注・所有した大阪商船株式会社を引き継ぐ会社です。
※『ばいかる丸』とはこんなお話…
1921年(大正10年)に客船として生まれた実在の船「ばいかる丸」。その後商船となり、戦争に巻き込まれ…と、40年間に様々なできごとに出会いました。この間の時代の変化とばいかる丸自身の変化を、みずからが語る手法でストーリーが展開していきます。
写真左から
商船三井キャリアサポート株式会社 常務取締役:大貫英則さん
商船三井キャリアサポート株式会社 ビジネスサポート事業部 広報事業グループ 専任部長:中島淳子さん
株式会社商船三井コーポレートコミュニケーション部 メディア広報チーム:鈴木尚子さん
名誉船長だった柳原さんとの交流
──この度は取材をお引き受けくださり、誠にありがとうございます。
大貫常務(以下、大貫)、中島部長(以下、中島)、鈴木さん(以下、鈴木)
いえいえ。このような素敵な本でばいかる丸を紹介していただけて、うれしいです。
大貫 ばいかる丸は1921年に建造ということですから、もう100年近く昔の話になるわけですか。
中島 計算したら、柳原先生が34歳のころの作品なんですよね。
鈴木 この『ばいかる丸』(初版)の刊行が1965年、そして先生は1931年生まれですからね。
中島 刊行された時期は、大阪商船と三井船舶が合併して新会社の大阪商船三井船舶株式会社(後の商船三井)になったころですけれども、おそらくは大阪商船三井船舶から本の出版をお願いすることはなかったと思います。ですから、本当に船好きである柳原先生がご自身の強い想いで“これだけ活躍した船があったのだから取り上げよう”という企画だったのではないかと想像します。
──残念ながら当時の社員がおりませんので、どういった経緯でこの本が出版されたかがわからないのですよ。
鈴木 そうかもしれませんね。そして、この本のどこにも「大阪商船」や「商船三井」とは直接書かれていませんから。
中島 柳原さんは横浜のイメージが強いですが、大阪にいらしたことがあるので、大阪への思い入れも強いんですよ。
大貫 そうですね、生まれたのは現在の東京の杉並区で、6歳の時にお父様の転勤で京都に転居し、その後西宮、豊中で暮らし、京都や尼崎の小中高校、大学に通いました。そして壽屋(現在のサントリー)に就職され、関西での生活が長かったのです。
中島 壽屋の入社の際は、大阪本社宣伝部だったようですね。
──御社に入社される方々は、やはり船がお好きな方が多いのでしょうか。
大貫 「はい」と答えるのが教科書通りなのでしょう(笑)。船が好きという者もいますし、海外とのつながりのある仕事をしたいということでその媒体として船、ということもあるかもしれません。
中島 一般の営業である陸上職というものと、海上職というものがありまして、船員になりたいということで入社する者もいれば、陸上職で造船に関わりたいという者もいます。柳原さんは、本当は造船技師になりたかったそうです。
絵が上手かったので、そちらの道へ進んだ方がよいのではないかと美術の道を選び、卒業後は壽屋に入社され、宣伝部へと配属となったようです。
──おふたり(大貫さん・中島さん)は柳原先生と直接お話をされたこともあるのでしょうか?
中島 当社のホームページに「柳原名誉船長ミュージアム」を開設したころから、毎月季節に応じた絵を、このミュージアムのために描いていただいていまして、文通のようなことをしておりました。
柳原さんは、GA…ジェネラルアレンジメント(一般配置図)という船の設計図をご覧になると、見たことのない船でも絵に描き起こすことができるんです、実物の写真がなくても。設計図から内容を読み取って描くことができるんですね。図面をとても嬉しそうにご覧になっていました。
大貫 そうなのです。造船技師を希望したこともあり、図面を見て完成形を想像できるんです。絵本『ばいかる丸』で例えますと、開いてすぐのページの鉄骨しかないくらいの段階の図でも、完成した船をイメージできるんです。そしてそれを切り絵にするわけです。ご推察の通り、柳原さんが描く船は縦・横の比率が正確に測ったものではなく、ご自身が受け取った印象で表現されています。しかし、写真の船よりもむしろ現実に近い。人の目で見たときは、そういう見え方をするものだと感じます。
ここが見どころ!『ばいかる丸』
──中島さんが先生に描いてほしい船などをお願いする際の苦労話などはあったのでしょうか?
中島 わたしは伝えるだけでしたので、苦労することはありませんでした。柳原さんは船についてあらゆることをご存じでしたから。
例えば船体の色。船体の色は会社によって使う色が決まっていまして、私どものコンテナ船でしたら青ですが、そういうのも全部わかってくれていました。何も言わなくても阿吽の呼吸でわかってくださっていて、希望する船名や背景を伝えると、その通りでかつ期待している以上に描いてくださいました。
鈴木 他にも、現在オレンジ色の煙突は世界でも商船三井だけなんですよ。この本ですと、煙突に当時の大阪商船の「大」の字が描いてあるページがありましたね。
中島 船の所有が大阪商船から東亜海運に変わると、船の煙突のデザインが変わっているんです。ここまで忠実に描き分けていらっしゃるのも、船をご存知だからです。
──確かに、大阪商船から東亜海運に変わったシーンでは煙突の印が違う!
中島 そういうところが、厳密なんです。
──今更ながら、絵に込められた意味を知りました。明確な意図があるのですね。
大貫、中島 そうです。船体など、見た目の比はデフォルメをして実際と異なっていますが、詳細の精巧な描写は、船を詳しく知っている方ならではです。
中島 船が沈む部分も、斬新に見えるかもしれませんが「船のつくりに関しては正しくありたい」というお気持ちが強く、創作というよりもかなり現実味が重視されています。そこに芸術性が加味されるので、素敵だと思います。
──わたしはこの作品を読んで、話の内容が史実に基づいていて感慨深いと思った一方で、絵はデフォルメをされているのかな、という印象を持っていました。でも、今のお話を伺うことで厳密性へのこだわりがわかり、魅力が倍増しました。船もそうですが、人も特徴的ですよね。
大貫、中島 人を必ず乗せるんです。女性が乗っているときは、何となく奥様に似ているということもあります(笑)。「そんなことはない」と柳原さんはおっしゃいましたが、全部そっくりなんです。
わたしたちが知らない「ばいかる丸」!
──絵本『ばいかる丸』は以前からご存じでしたか?
大貫、中島 詳しくは知らなかったのですが、映像作品が残っておりまして、そちらは存じていました。手元の年譜によれば、この本が刊行された翌年の1966年にアニメーション映画が柳原さんの脚本・監督で制作されたとあります。
鈴木 ちょうど当社のビルの入口、受付、応接スペースをリニューアルした機会に、当社が所有する柳原さんの作品を飾って展示したことがありました。そのとき、多くの切り絵・油絵だけでなく、小さな会議室で「ばいかる丸」を主人公とするアニメーションもご覧いただきました。
大貫 長さは10分くらいだったと思います。中村メイコさんによるナレーションで、絵本とほぼ同じことばが読まれていたのではないでしょうか。絵本を拝見して、アニメーションの存在をまず思い起こしました。
中島 絵本があって「これはいいものができた」という柳原さんの想いから、アニメーション化したいと思われたのではないでしょうか。船が戦争で攻撃されるシーンは、実際に船の模型に火をつけて撮影していたと奥様がおっしゃっていました。
──迫真の撮影ですね。
大貫 一発勝負のNGなしです(笑)
鈴木 本当に船好きな柳原さんだからこその内容ですよね。新しい本はたくさんありますけど、これほど細やかに描かれている本はないと思います。作品展示会は、ちょうど今から一年ほど前のことでした。
中島 復刻版の絵本が一年前にあればと思うと残念です。また、先生がご存命でしたらきっと喜んでくださったはずです。
※柳原さんは2015年の8月17日にお亡くなりになっています。
──絵本としての『ばいかる丸』ではなく、そもそも船としての「ばいかる丸」のご認識はありましたか?
中島 頭の片隅にはあったと思います。
鈴木 大阪商船の船名には海外の地名をひらがなで付けるという、ちょっとした慣習がありまして…ぶらじる丸、あるぜんちな丸、さいごん丸、あめりか丸もそうですね。この中に、あったかなという認識ですね。
──湖の名前でもありますし、一風変わっていますよね。ばいかる丸のように色々な用途で使われた船は他にもあるのでしょうか?
大貫 例として挙げられるのは、笠戸丸ですかね。1900年に建造され、日露戦争のころは日本軍所属でした。1908年には日本からブラジルへの最初の移住者を運びました。その後大阪商船の貨物船、更に漁業会社に移籍して漁船・工船として1945年まで稼働しました。ですから、ばいかる丸の他にないわけではないですが、極めて稀です。
中島 柳原さんは、戦争で子どものころ大好きだった船がたくさんなくなってしまったことから、残っている船の絵葉書などはないですかと各船会社に手紙を出したそうです。その時に、大阪商船はとても嬉しい返事をくれたということでお付き合いが始まったわけですが、こういった生き延びた船や背景のストーリーのすべてが宝物だったのだと思います。
大貫 しかもばいかる丸は、40年を超えて現役だったわけですから。普通、貨物船の寿命は25年くらいまでなんですよ。20年を超えると保険料が高くなったりします。また、大型の貨物船の多くは、税務上の償却耐用年数が15年で計算されます。
ですから、40年もの間に色々な運命をたどって役割を果たした船に対して、柳原さんの愛情があふれていますよね。先生は本当にばいかる丸を愛しているんだなと感じました。
──柳原さんの愛情に加えて、余白など文字の配置もふくめてよい仕上がりになっていますよね。ばいかる丸のモノローグもじわじわと心にしみます。
鈴木 最後のページ「まだまだこれからもがんばるぞ!」は涙が出ます。
──40年という年数がいかに異例かということをうかがうことで、ひときわ重いせりふに感じられてきました。今となってはわからないことですが、もしかすると、企画の段階でばいかる丸を主役にするという方針は、編集者からではなくやはり柳原さんのご発案だったのかもしれませんね。
大貫、中島、鈴木 このたび、桜木町の日本丸メモリアルパーク近くにある横浜みなと博物館内に「柳原良平アートミュージアム」ができました。柳原家が横浜市に寄贈した作品およそ4,000点を、入れ替えながら展示すると伺っています。
──ぜひ訪れてみようと思います。さて、改めて振り返りますと、柳原さんは船の一番の理解者でありファンであり、マニアの域を超えた存在に感じられます。
中島 そうですね。しかもただのマニアじゃなくて、腕と知識がついてきています。
誰もが聞いてみたい、あの質問を・・・
お忙しいところの取材を終え、商船三井の受付ロビーにある数々の資料を拝見することとなりました。
ビルから失礼しようかという矢先、わたしは『ばいかる丸』の読了以降、ずっと気になっていたことを聞いてみました。
──ばいかる丸は作品で描かれた後、どのような運命をたどったのでしょうか? 調べても手がかりがありませんでした。
大貫 鉄くずとして再利用されたのではないでしょうか。40年ですからね。
──そうですか。残念という気持ちと、安らかに眠ってほしいという気持ちが半々です。
大貫 でも、他の船の一部になっているのではないかと…いえ、必ずや形を変えてどこかを航海していると思います!
今は、もうその姿は見られない「ばいかる丸」。船舶としては異例の長寿ともいえますが、その長い旅路を終えた場所や、そのとき周りにいた方々についてはわかりませんでした。一方で、ひとつだけはっきりとわかったこともありました。
今もちがう名前の船の一部として、海上に生き、人々のくらしを支えている。
半世紀以上前の初版刊行時から、変わらないこと。それは、形こそちがえども、人知れず<がんばっている>ばいかる丸がいるということ。
「ばいかる丸」は一隻の船舶という意味以上に、その時代その時代を支えている海運業のメタファーだったのです。
万感の思いで、商船三井を後にしたのでした。
<編集後記>
取材後、大貫さん、中島さん、鈴木さんから紹介していただいた「柳原良平アートミュージアム」に行ってみました。
館内には切り絵や油絵はさることながら、鉛筆画など柳原さんの作品が所狭しと展示されていたわけですが、「省略と圧縮」と作品の特徴が紹介されていました。
海と相性のよい夏は過ぎてしまいましたが、芸術の秋が控えていますので、横浜にお越しの方はぜひお立ち寄りを!
取材協力:株式会社商船三井
投稿者:gimro