みなもと太郎先生ロングインタビュー〜悲しくはあったけれども、姉が亡くならなければマンガ家にはなれていなかったかもしれない〜
みなさん、こんにちは!
「岩崎書店のブログ」管理人の大塚芙美恵です。
マンガ家のみなもと太郎先生は、今年めでたく70歳を迎えられたのですが、なんと20歳のときにデビューされたので、今年で画業50周年! 今もリイド社の「乱」という雑誌に『風雲児たち』というマンガを連載されている、バリバリの現役でいらっしゃいます。
その『風雲児たち』、連載が37年にも及ぶ大長編マンガであることはご存じの方も多いかと思うのですが、なんと来年(2018年)初めに、あの三谷幸喜さん脚本でドラマ化されることも決まりました!
そんなみなもと先生には、マンガ家以外にもう一つ「マンガ研究家」という顔もおありです。これまで数々の研究を雑誌や本で発表されてきたのですが、このたび満を持してマンガの通史に正面から取り組まれた作品——その名もズバリ『マンガの歴史』というご本を出版されました。
そこで今回は、そんなみなもと先生に70年に及ぶ人生のこと、50年に及ぶマンガ家生活のこと、37年に及ぶ『風雲児たち』のこと、そして新しく出される『マンガの歴史』についてなど、じっくりお話しを伺ってきました!
■姉が亡くならなければマンガ家にはなれていなかったかもしれない
——まずは、画業50周年、並びに『風雲児たち』のドラマ化、おめでとうございます。
みなもと先生(以下「み」) ありがとうございます。これは50周年の祝賀パーティーでも述べさせていただいたのですが、私は本当に多くの方々の絶大なる助けがあったからこそ、ここまでどうにかやってくることができました。本当にありがたいことです。
——それでは早速なのですが、先生がマンガと出合われた、あるいはマンガを好きになられたのはいつ頃ですか?
み それはもう生まれつきですよね(笑)。とにかく物心ついた頃にはすでにマンガに夢中になっておりました。
私は、2、3歳になってからは家の中でも歩いたことはなく常に走り回っているような落ち着きのない子ども——京都弁で「ちょか」——だったのですが、紙と鉛筆を与えとけば大人しくしておりました。また、友だちの家に遊びに行くと必ず本棚を見て、マンガがあれば引っ張りだし、帰れと叩き出されるまで読んでおりました。それも、単行本では飽き足らず、自分のところでとってない新聞があれば、4コマだけはしっかり見て、というのをしておりました。
——それでは、マンガ家を志したのもその頃?
み もちろん、頭の片隅にはいつもそれがありましたが、そう簡単にことが運んだわけではありません。
まず、小学校のときはマンガを描きたくても教師が睨みきかせてるから描けなくて、中学生になったら授業中3年間、マンガを描き倒しました。だから、私の学歴は小学校卒業(笑)。
それから美術高校に進学するのですが、そこでだいぶ欲求不満が解消されるのです。とにかく毎日絵が描けるので、そういう意味ではマンガそのものに対する執着は減ってはいるけれども、基本的にはマンガは好きでした。
——では、それもあって卒業後に一旦就職されるのですか?(注・みなもと先生は高校卒業後、着物の会社にデザイナーとして就職されます)
み 就職したときは、いずれデザイン部を会社の中に作るからチーフになるようにということで入れてもらったんですが、しかし入るとなおさら焦りが強くなり、結局3ヶ月で耐えられなくなって、退職してしまいました。それから後は、マンガしか目に入らないという(笑)。
いずれにしろ、当時は「マンガ家になるなどとはとんでもない」という世間の風潮がありましたから、一筋縄ではいかなかったのです。例えば私には姉がおったのですが、親以上に彼女が私がマンガを描くのを認めてくれませんでした。私を大学に行かせないと自分が生まれてきた理由がない……というくらいの姉だったのです。
しかしこちらとしては、「大学なんか行ってたらマンガ家にはなれない」という焦りがありました。というのも、当時はマンガ家のデビューは20歳までにするものと相場が決まっていたからです。大学のマン研からプロになったという人が出てきたのは、その後のことです。それ以前にも、園山俊二、東海林さだお、福地泡介の3人組が大学生からマンガ家になっていますが、彼らは子ども向けのマンガではなく大人向けのマンガだったんです。大学のマン研が子ども向けのマンガを描き始めるのは、その後の時代——ようするに「ガロ」以降になります。私はその直前だったわけで。
ただ、京都の美大にならマンガ家になるのに役立つ学科があるかもしれないと思って見学しましたけど、そこの人たちはマンガに対する理解がない以前に、マンガというものがこの世に存在していることを知らないということがわかり、絶望していました(笑)。
ところが、高校1年の終わりに、その姉が亡くなっちゃうんです。非常に悲しいことではありますけれども、一方で「マンガ家への道はこれで拓けるかもしれない」という思いは、そのときありましたね。
——それで、会社を3ヶ月で辞められた後はどうされたんですか?
み マンガ家になりたくても『石森章太郎のマンガ家入門』はまだ出てないし、詳しいことはわからないわけです。その頃は、フリーで描くのか、それともなんらかの企業に入って描くものなのか、それすらもわかっておりませんでした。
他にも、どうして吹き出しの中だけが活字になっているのかとか、出版社との契約はどうするのかとか、そういうことを知っておこうということで、3ヶ月間貯めた給料でその頃できたばかりの新幹線に飛び乗って東京へと向かったわけです。
そこで、ほんの3、4日で帰るつもりだったのが、なぜか親しくなった平塚らいてうのお孫さん(男性です)に非常に良くしていただき、居候してもいいよということで、結局1ヶ月間おりました。
その間に、とにかく回れるだけの出版社を回り、また回れるだけのマンガ家を訪問して、いろいろと情報を仕入れたわけです。当時は、マンガ家の住所はファンレターの宛先と称して普通に雑誌に掲載されていましたので、訪ねること自体は容易でした。
——どのようなマンガ家さんをご訪問されたんですか?
み 白土三平、一峰大二、貝塚ひろし、水野英子、石ノ森章太郎(当時石森章太郎)、あすなひろし、ちばてつや、藤子不二雄のAとFの両氏、つのだじろう、赤塚不二夫、水木しげる……あと誰だったかな。
——手塚治虫さんは行かれなかったんですか?
み 怖くて行けなかった!(笑)
■マンガはパクりの文化です!
——『マンガの歴史』の中でも、ちばてつやさんはかなり重要人物として取り上げられています。
み 私がちば先生のマンガを最初に読んだのは、「少女クラブ」の別冊付録が発売された当時ではなく、ずっと後になって読んだときです。
というのも、私の姉は普通の人間ですから中学になるとマンガを卒業してしまい、少女マンガは家にありませんでした。そこで、隣に住んでいた幼馴染みのちあきちゃんが「少女クラブ」をとっていたので、とにかく家に上がり込んで読んでいました。
ところが!
その頃こちらが中学に上がるくらいで、なぜか急に女の子と口がきけなくなるんです! その直前までは、なにしろ幼馴染みで家族もよく知っていますから、ちあきちゃんがいようがいまいが無視して上がり込んでいたのですが、全く近づけなくなる。それどころか、貸本屋においてさえ少女マンガのコーナーに体を向けることができない期間が1年か2年ありました。
それでも、とにかくその頃少年マンガの分野で劇画など新しいものが次から次へと出ているのだから、少女マンガでもその動きがないわけがないと思って、あるとき意を決して再び見始めるんです。
そんなふうに、一旦たがが外れれば、あとは片っ端から手当たり次第というふうになります。そのとき、やっとこさ「少女クラブ」の付録だけに長編を描いているすぐれた作家を発見するんです! 確か『ユカを呼ぶ海』の最後の方だと思う。ただそのときは最終回を読めなくて、後で貸本向けの単行本になったときに初めて読むんですが、ラストシーンに感激して、呆然としばらく立ち尽くして、「これはすごいマンガ家が現れたな……」と。
その感激のまま、後年私は『レ・ミゼラブル』のマンガを描くのですが、そのラストシーンで『ユカを呼ぶ海』のラストシーンをそのままパクりました! マンガはパクりの文化です!
——ちばてつやさんの、どこがそれだけすごかったんですか?
み 主人公のユカは、お父さんと離ればなれになるのですが、紆余曲折あって最後にようやく一緒に暮らせるようになります。その前にお父さんは目の手術をしているのですが、この見開きをご覧ください。
——すごい。見開きの全コマ同じ構図ですね。
み ここで鳥肌を立たせておいて、ラストでまた泣かせるんです! その余韻の持たせ方がもう、しばらく動けなくなりました。
——ちなみに、ネタバレしない範囲で、パクった部分を教えていただけますか?
み 『ユカを呼ぶ海』のラストシーンは、断崖絶壁の上に立つユカが住む邸宅のロングショットで終わるのですが、一方こちらが『レ・ミゼラブル』のラストシーン。
——なるほど、こちらも邸宅のロングショット。どちらも余韻を持たせ、読者の想像力をかき立てるような作りになっているんですね。
み それから、『ユカを呼ぶ海』の次の作品である『リナ』の中にも、こんなシーンがあります。
み この叙情性! 台詞はほとんどなしで、主人公の何気ない日常を描きながら、その内面を描いているのです。こんなことは、当時の少年マンガではとてもではないが許されませんでした。少女マンガだから初めて描けた。それ以前に、ちば先生以外にこういうのを描いている人は一人もいませんでした。
おかげで、私はとにかくちば先生にハマるというか、学ぶというか。それは、なにも私一人じゃなくて、この時代のマンガマニアからプロになってるレベルの人まで、みんなちばてつやを学ぶ、そういう時代があったんです。
——そのちば先生との対談イベントが、今度おありになるんですよね?
み ちば先生には、聞きたいことがいっぱいあるんです! その予習を、今からしているところです(笑)。
——ちば先生との対談イベントの詳細は、以下となっております。みなさま、ぜひともお越しください!
■『ホモホモ7』はいかにして発明されたか?
——今度は、みなもと先生の出世作ともいえる『ホモホモ7』についてお聞かせください。まず、これを描かれたきっかけはなんだったのでしょうか?
み それまでずっと、作品としてのネームにかかるまでの数年間というのは、何かモヤモヤしたものはあるけれども言葉にならない、形にもならないものを抱えていたんです。自分の水面下にはあるけれど、表には出て来ない。
——それは、『ホモホモ7』という作品がですか?
み というより、『ホモホモ7』という作品の「スタイル」ですね。
『ホモホモ7』の中にはいろんな要素が入ってるんですけど、例えば赤塚不二夫先生が『おそ松くん』で人気が出たときに、「少年」という雑誌で『まかせて長太』という作品を描かれていたんです。そこに出てくるデカパンのおっさんが、マンガ好きでマンガ雑誌を読んでいるというくだりがありました。それは「大人がマンガを読んでいる」ということ自体がもうすでにギャグなんですけど、そのマンガ雑誌の作中マンガに「アトム」が2コマほど出てきて、それを読んだおっさんが「来月にちじく(つづく)か、もっとみてよみてえす」って言って、次に進むと鉄人28号がまた2コマほどあって、「来月にちじく(つづく)だ」とか言いながら、絵柄がパッパと変わる部分があるんです。それは、どこか脳内に残ったんでしょうね。
それから、あすなひろしの『キャシーといっしょに!』の中で、美男美女が会話していて、女の子がとぼけた話しをしたときに、美男がコテっと目が丸くなって、その変化には驚いたというのがありました。
さらには、園田光慶の『アイアン・マッスル』という、劇画の歴史を変えて今もそれを超えるものはないといわれる作品の中に、息抜きページというのがあって「おち目のショックさん」というのが出てくるんです。読者コーナーに入る直前に、突然違う絵柄のキャラクターが出てくる。
それらは、面白いとは思ったけど、でもまだつながらないのです。とにかく、そういうものがずっと私の脳内に蓄積はされていくんだけど、『ホモホモ7』として出て来るにはまだ時間がかかる。
その後、ミッフィーの絵本の第1巻を読むんです。『ちいさなうさこちゃん』。あの絵本は、シンプルな絵柄の少ないページの中に受胎告知の場面があったりしてすごいんですけど、あのビジュアルも、それらのものに重なっていくんですね。脳内で。
——それらが、あるとき急に一つにつながるんですか?
み はい。私は当時、デビューしたもののプロにはなり損ねていて、作画グループという同人で描いていたのですが、同人仲間の宇和田義則という男の家で居候していたんですね。私は食えないとき居候ばっかしてたから(笑)。
宇和田くんが一生懸命『アイアン・マッスル』風の作品を描いているのですが、これがまあ、画がめちゃくちゃなんです。(笑)それで彼は、男は描けるけれども可愛らしい女の子は描けない。だからみなもと、おまえが描いてくれということで、「じゃあヌード描くぞ」と言ったらそれを描けということで、ヌードを描いていたんですね。
そのとき、最初は一生懸命描いていましたが、そのうち疲れてきて、息抜きにミッフィーの目をした男の画を、画面の端にイタズラ描きしたんです。ただし服装は、貸本劇画に必ず出てくる帽子をかぶってもみあげがやたら長い男。あまりの長さに顔からはみ出すという、そういう戯画化した貸本劇画のキャラクターを、目だけをミッフィーにして。(笑)
——このキャラクター自体が、貸本劇画のパロディなんですね。
み で、この絵を自分で見たときに、「あれ? なんか描けるんじゃないか」と思って、その晩にネームが24枚、全て描き上がったのが、そのまま後に『ホモホモ7』の第1回の原稿となったんです。
——蓄積していたものが全て出てきたんですね。
み まさにそうです。で、その後紆余曲折はあるんですが、同人仲間のばばよしあきさんと一緒に、講談社「少年マガジン」の編集者である宮原照夫さんとお会いする機会があったんですね。そのときに、こちらがボケっとしてたら、宮原さんが「一体君はなんなんだ?」と聞くから、実はこういうのを描いてますと『ホモホモ7』の原稿を見せたら、バァーと見られた宮原さんが、読み終わって「これ連載します!」と叫んだんです(笑)。
そのことは、宮原さんにとっても印象的だったのか、彼の自伝の「あとがき」に書いてあります。私は、彼の正史には入らず、あとがき扱いなのですが、それは私にもよくわかります。『ホモホモ7』は、当時の「少年マガジン」はもちろん、彼の編集人生の中でも全くの異色ものでした!(笑)
それでも、めでたく連載が決まって東京に引っ越すことになり、今でもこうして住んでいるわけですから、その意味では、宮原さんもそうですが、宇和田くんがぼくの人生を変えたともいえるわけです。
■風雲児たち誕生秘話
——『風雲児たち』が始まったきっかけについて教えていただけますか?
み これはあちこちで話していることですが、初めは10巻くらいの予定だったんです。ところが、描き始めてみると、あれも落とせないこれも落とせないとなって、こういう体たらくになったという(笑)。
歴史に興味を持ったきっかけは、やっぱり司馬遼太郎でしょう。京都にいた頃、すぐ近くに京都工芸繊維大学があって、そこの学生さんたちと仲良くなって、大学の寮に行っては煙草でも吸いながらダベっていたんです。
すると、みんな司馬遼太郎が面白いよというものだから、興味を持ってね。一番面白いのが『竜馬がゆく』というから、それじゃあと、竜馬は「読まなかった」んです。そこらへんが、私の捻くれたところで(笑)。
それで、司馬遼太郎そのものはちょこちょこ読み始めたけど、『新選組血風録』あたりから読み始めたのかな。
そのずっと後、東京に出てきてから親しい編集さんと打ち合わせをしていたときに、『花神』が面白いよというので、じゃあ読んでみようと思ったらハマってしまって、そこから全巻読破しました。「竜馬」も、そこで初めて読んだんです。
——結局、読まれたんですね(笑)。
み で、司馬遼太郎を読んでいると、『花神』を読んでたら大村益次郎一人で明治維新をやったように感じて、『世に棲む日日』を読むと高杉晋作がいれば明治維新はできあがるんだとなり、『竜馬がゆく』を読むと竜馬が一人で明治維新をやったと(笑)。それの謎が、とにかく残ったんです、司馬遼太郎全集を読み終えてね。
で、そこで新連載の話しが来たときに、私の中では「誰が明治維新をやったのかさっぱりわからん!(笑)」となっていて。司馬遼太郎を全巻読んでもわからんというのはめちゃくちゃな話しで、「コレは俺が解き明かす!」というのが、『風雲児たち』を始めた意図なんです。
だから、司馬遼太郎が一人一人主役にしてたやつを全部集めて、将棋盤でいうとこの人がここにいたときは、この人はここにいて、この人はまだ動いてないというのをやりはじめたわけです。つながりを理解するために。そうしたら、司馬遼太郎が一人一人にしぼった理由がすごくよくわかった(笑)。収拾がつかなくなるんです。そういう意味で、私は今、収拾がつかないことをやってるわけです。
——NHKでは解体新書のくだりをドラマ化されるんですよね。
み だからね、一時間半で切り取るみたいな。まあ、それしかないと思います(笑)。
■『マンガの歴史』の後悔?
——新しく出されたご本、『マンガの歴史』についてもお聞かせ願えますか?
み まあ、いつかは出したいなと思っていたわけです。ただ、50歳になるまではマンガを描くことで忙しく、50歳になってさすがに体力的にきつくなり、それなら連載は月間1本にしぼろうということでセーブするんですが、そうしたらすることがなくなって仕方なく趣味でマンガを描き始め、それをコミケに出すことになり……と、ずっと後回しになっていました。
ところが今回は、子ども向けに出すという。それで、もちろん重要な部分は書くけれども、小学生向けの入門書として、あるいは調べたりするための手引き書として、書いてもらえないかと。
それならこちらもぜひやりたいということで、始めたわけです。
——書かれてみて、いかがでした。
み いや、実は、第1巻が世に出て、みなさんに読んでいただいた後に、はたと気づいたことがあったんです。
——なんでしょう?
み この本の中では、手塚治虫が出てきて、次にトキワ荘が出てきて、一方劇画もあって、水野英子もいて、ちばてつやもいて、と順に紹介していますが、実は、彼らが出てくる以前に人気だった「少年」「少年画報」「野球少年」「痛快ブック」「少年倶楽部」「少年ブック」といった雑誌に描いていたマンガ家たちの名前が、全然出てこないんです。
確かに、みんな時代の波の中に消えていくんですけれども、少なくともそれまでは、これだけの数の少年雑誌が毎月毎月出てたわけですから、そこに描いていた作家たちもちゃんと人気があり、読者を楽しませていたんです。そのことに触れていなければ、その人たちが悲しむというか。この人たちは、このままみんな忘れ去られていいのかというと、それはいけないわけで。
——なるほど。
み だから、この『マンガの歴史』はこの後も続くのですが、第2巻には、そうした方々の名前の列挙だけでも入れたいと。あの方たちはあの方たちで、当時小学生だった私たちに対して、面白いマンガを提供し続けてくれていたわけですから。それを確実に喜んでいた子どもたちがたくさんいたわけですから。
そう! 確かその資料がこちらに……
この後も、先生のお話しはときに脱線をくり返しながら、しかし熱く進んでいきました。とにかく、先生のマンガへの情熱があふれ出した2時間のインタビューで、私はただただ純粋に感動しました!
今回は以上となります。お読みいただき、ありがとうございました!
投稿者 大塚芙美恵